弘前城の覚え書き_まとめ
訪問したお城の歴史についてのまとめ、弘前城編
弘前城
別名:鷹岡城、高岡城
城の種類:平山城
築城年:慶長八年(1603)
築城者:津軽為信・信枚
主要城主:津軽氏
遺構:現存天守、櫓、門、石垣、堀、土塁、曲輪
文化財指定:重要文化財
所在地:青森県弘前市下白銀町
交通:JR弘前駅より徒歩約25分
歴史・沿革
弘前城は津軽地方を統一した津軽為信が起工し、為信の三男信枚によって築城されたとされる。
為信の出自には諸説あり定かではないが南部一族の豪族であったと言われている、その為信は永禄十年(1567)大浦城主、大浦為則の娘・戌姫を娶り養子となり大浦氏を継ぐ。
そして元亀二年(1571)為信は突如として、南部家当主・晴政の叔父の石川高信の守る津軽石川城に夜襲をかけ攻め、高信を自害に追い込む。
一方、津軽統治の重要な拠点である石川城をすぐに奪回したい南部家は、当主晴政と晴政の養子となった信直とが争っている時で身動きが取れなかった、この信直は当初晴政に男子が無く晴政の娘を正室として向かえ養子に入ったが、のちに晴政に実子晴継が生まれると次第に晴政より疎まれ争うようになったのである、そしてこの信直の実父は大浦為信によって攻められ散った石川城主石川高信である。
その後、大浦為信は陸奥国の名族浪岡氏の当主・浪岡顕村の居城浪岡城を攻め落とすなど、天正十六年(1588)頃までには津軽一帯と外ヶ浜の占領に成功する、そして一方では早くから秀吉と誼を通じており、天正十八年(1590)秀吉が小田原攻めを開始すると、いち早く駆けつけ石田三成の仲介もあり秀吉より所領を安堵されている。
またこの頃に大浦から津軽に姓を改めている。
文禄三年(1594)為信は堀越城を築き、大浦城より移るが軍事に不向きである事を理由に、新城の候補として現在の弘前城の地である鷹岡を選ぶ。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは東軍につき、徳川家康より2千石の加増を受け、4万7千石の弘前藩が成立する。
またこの関ヶ原の戦いでは、為信と三男の信枚は東軍として参加したが、嫡男信建(烏帽子親は石田三成)は豊臣秀頼小姓衆として大阪城にあった、この両軍生き残り策が戦後の行賞で2千石加増に留まった理由とも考えられる。
慶長八年(1603)に高岡(鷹岡)への新城築城が着工するが、慶長十二年(1607)為信は京都で客死し築城も中断する。
また、嫡男信建は父為信より2月前に死去していたため(次男も既に死亡)、三男信枚が家督を継承する事となる。
慶長十四年(1609)には先代より整備が始まって途中中断していた高岡城築城の許可が幕府より正式に下りたことにより築城再開となり、堀越城や大浦城の遺材を用いての急ピッチの築城が行われる。
慶長十六年(1611)築城再開から僅か一年数ヶ月で弘前城は完成となるが、当時5万石に満たない大名に対して大天守を持ち城下に現在の弘前市に繋がる城下町をもつ大城郭の整備を許可した事は破格の事であり、これは北辺警備の都合を幕府も考慮しての事だったと言われている。
以降弘前城は、廃藩となるまでの260年間津軽氏の居城として津軽藩政の中心地となる。
また、寛永四年(1627)に落雷により、築城当時の5層5階の天守を焼失し200年近く無いままの状態であった天守は、文化七年(1810)九代藩主寧親の時に、蝦夷地警備の功績を認められ隅櫓の改築という形で天守再建が許可され現存する3層の天守が完成する。
参考資料
現地案内板
現地取得パンフレット
参考サイト
「ウィキペディア(Wikipedia)」
弘前城
別名:鷹岡城、高岡城
城の種類:平山城
築城年:慶長八年(1603)
築城者:津軽為信・信枚
主要城主:津軽氏
遺構:現存天守、櫓、門、石垣、堀、土塁、曲輪
文化財指定:重要文化財
所在地:青森県弘前市下白銀町
交通:JR弘前駅より徒歩約25分
歴史・沿革
弘前城は津軽地方を統一した津軽為信が起工し、為信の三男信枚によって築城されたとされる。
為信の出自には諸説あり定かではないが南部一族の豪族であったと言われている、その為信は永禄十年(1567)大浦城主、大浦為則の娘・戌姫を娶り養子となり大浦氏を継ぐ。
そして元亀二年(1571)為信は突如として、南部家当主・晴政の叔父の石川高信の守る津軽石川城に夜襲をかけ攻め、高信を自害に追い込む。
一方、津軽統治の重要な拠点である石川城をすぐに奪回したい南部家は、当主晴政と晴政の養子となった信直とが争っている時で身動きが取れなかった、この信直は当初晴政に男子が無く晴政の娘を正室として向かえ養子に入ったが、のちに晴政に実子晴継が生まれると次第に晴政より疎まれ争うようになったのである、そしてこの信直の実父は大浦為信によって攻められ散った石川城主石川高信である。
その後、大浦為信は陸奥国の名族浪岡氏の当主・浪岡顕村の居城浪岡城を攻め落とすなど、天正十六年(1588)頃までには津軽一帯と外ヶ浜の占領に成功する、そして一方では早くから秀吉と誼を通じており、天正十八年(1590)秀吉が小田原攻めを開始すると、いち早く駆けつけ石田三成の仲介もあり秀吉より所領を安堵されている。
またこの頃に大浦から津軽に姓を改めている。
文禄三年(1594)為信は堀越城を築き、大浦城より移るが軍事に不向きである事を理由に、新城の候補として現在の弘前城の地である鷹岡を選ぶ。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは東軍につき、徳川家康より2千石の加増を受け、4万7千石の弘前藩が成立する。
またこの関ヶ原の戦いでは、為信と三男の信枚は東軍として参加したが、嫡男信建(烏帽子親は石田三成)は豊臣秀頼小姓衆として大阪城にあった、この両軍生き残り策が戦後の行賞で2千石加増に留まった理由とも考えられる。
慶長八年(1603)に高岡(鷹岡)への新城築城が着工するが、慶長十二年(1607)為信は京都で客死し築城も中断する。
また、嫡男信建は父為信より2月前に死去していたため(次男も既に死亡)、三男信枚が家督を継承する事となる。
慶長十四年(1609)には先代より整備が始まって途中中断していた高岡城築城の許可が幕府より正式に下りたことにより築城再開となり、堀越城や大浦城の遺材を用いての急ピッチの築城が行われる。
慶長十六年(1611)築城再開から僅か一年数ヶ月で弘前城は完成となるが、当時5万石に満たない大名に対して大天守を持ち城下に現在の弘前市に繋がる城下町をもつ大城郭の整備を許可した事は破格の事であり、これは北辺警備の都合を幕府も考慮しての事だったと言われている。
以降弘前城は、廃藩となるまでの260年間津軽氏の居城として津軽藩政の中心地となる。
また、寛永四年(1627)に落雷により、築城当時の5層5階の天守を焼失し200年近く無いままの状態であった天守は、文化七年(1810)九代藩主寧親の時に、蝦夷地警備の功績を認められ隅櫓の改築という形で天守再建が許可され現存する3層の天守が完成する。
参考資料
現地案内板
現地取得パンフレット
参考サイト
「ウィキペディア(Wikipedia)」







