備中松山城の覚え書き_まとめ
訪問したお城の歴史についてのまとめ、備中松山城編
備中松山城
別名:高梁城
城の種類:山城
築城年:仁治元年(1240)
築城者:秋庭重信
主要城主:秋庭氏、高橋氏、高氏、上野氏、庄氏、三村氏、小堀氏、池田氏、水野氏、浅野氏、安藤氏、石川氏、板倉氏
遺構:現存天守、石垣、土塀、櫓、門、曲輪、根小屋
文化財指定:重要文化財
所在地:岡山県高梁市小松山
交通:JR「備中高梁」駅よりタクシー・バスで約15分、小松山の本丸まで徒歩約20分
歴史・沿革
承久の乱後、鎌倉幕府から戦功の賞として備中国有漢郷の地頭職に補せられ現在の上房郡有漢町貞守台ヵ鼻に台ヵ鼻城を築きここを居城とした秋庭重信が、仁治元年(1240)備中路における軍事拠点として臥牛山の大松山に始めて城を築いたのが備中松山(高梁)城の始まりと言われている。
南北朝の内乱初期の頃になると、元弘元年(1331)三好氏一族で備中守護職となった高橋宗康が城主として入り四代23年間高橋氏の居城となる、この間に城域を現在天守の残る小松山方面まで広げる。
またこの時に当時の高橋城の名を松山城に改めたとも言われている。
室町時代に入り、正平十年(1355)高師秀が備中守護として松山城に入るが、七年後の正平十七年(1362)には高氏の執事などを勤めていた秋庭氏によって師秀は追放され、再び秋庭氏が松山城を回復する。
戦国時代になると、永正六年(1509)には上野頼久が備中守護代として入城、天文二年(1533)には上野氏を滅ぼし庄為資が、元亀二年(1571)には庄氏を滅ぼし三村元親が入城するといったように目まぐるしく城主が変わった。
備前の宇喜多氏との戦いで敗れた後、毛利氏の援助で勢力を回復し松山城に入る事が出来た三村氏であったが、後に宇喜多氏が毛利氏と和睦し接近するようになると、松山城主・三村元親は長い間争い、また父親の三村家親を宇喜多直家の刺客によって暗殺されている事からも深い恨みを抱いている仇敵宇喜多氏の毛利陣営参入を不満に思うようになる。
その元親に毛利氏と対立している織田信長からの誘いが掛かる、長年仕えた毛利氏を裏切る事に反対意見もあったが、天正三年(1575)元親は宇喜多氏打倒のため毛利陣営より離反し織田陣営へ寝返る、この時寝返りを反対していた祖父・三村親成とその子親宣の父子は元親を見限り出奔している。
この三村氏の離反に強い怒りと危機を感じた毛利輝元は、山陽道守将・小早川隆景を総大将とし備中に8万の大軍を派兵する。こうして松山城を中心とした戦い備中兵乱の口火が切られる事となる。
この一連の流れの中で、毛利方で山陰道守将・吉川元春は宇喜多は信用出来る相手ではなく、歴代忠孝を働いてきた三村家を蔑ろにするものであり、義から外れる行いであると宇喜多氏との和睦に反対し、備中派兵の際も直接三村元親に会って翻意させるので討伐は厳に避けるべきであると具申するが容れられず、「義を通さぬ毛利家の将来は暗い」と嘆いたという。
三村勢の本城である松山城はこの頃、「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていて臥牛山全域が巨大な要塞となっていたと記録に残っていると言う事です。
このため毛利軍は松山城を残し、猿掛城・斉田城・国吉城・鶴首城など周囲の城を次々と陥落させ、松山城を包囲する。
裸城同然になったとはいえ、要塞化している松山城を力攻めで落とす事は容易ではなく、持久戦に持ち込み戦意を失わせ離反などの内部からの崩壊をまった。
その結果、1ヶ月ほどして三村勢の士気は衰え、内応者が出て天神の丸が陥落する、そして内応する者が次々と現れ天正三年(1575)最後まで残った家臣の説得で三村元親は妻子や残った家臣と共に落ち延びる事を決める。
こうして要害松山城は陥落し備中兵乱は収束する事となるが、元親は落ち延びる途中で怪我を負い落ち延びる事を断念する、そして小早川隆景に切腹を願い出て松山城の砦の役割を兼ね創建された松連寺で自害して果てる。
この後、慶長四年(1600)関ヶ原の戦いで西軍に与した毛利氏は敗れ防長二国に退く、そして徳川幕府は毛利の押さえとして松山城に城番として小堀正次・政一(のちの遠州)親子を置く。
正次は四年後に他界し、代わって政一が代官としての職につき元和三年(1617)に河内国奉行を兼任となり、大阪天満南木幡町に役宅を与えられ移るまでの17年間を備中松山で過ごす。
その間、慶長十三年(1608)には駿府城普請奉行となり修築の功により従五位下遠江守に叙任され、以降この官位から通称・小堀遠州と呼ばれるようになる。
また、松山では城下町や御根小屋の整備や修築に力を注ぐ、当初は頼久寺で政務を執っていたが改修後は御根小屋に移り住んだという。
元和三年(1617)からは政一に代わり、因幡鳥取藩より池田長幸が入城し、6万5千石の備中松山藩が成立する。
しかし、寛永十八年(1641)池田氏は二代で無嗣除封となり松山藩は一時備後福山藩の預かりとなる。
慶安元年(1642)水野勝隆が成羽より入封する、現存する天守はこの水野氏の二代・勝宗により造営された物であるとも言われている。(一説には小堀遠州が造営した天守を勝宗が改修したとも)
水野氏も三代で無嗣除封となり所領は没収となる、播磨赤穂藩預かりとなり浅野氏の所領となる、この時家老の大石内蔵助良雄が1年ほど城番を勤めている。
その後は安藤氏二代・石川総慶・板倉氏七代と城主を務め廃藩置県を迎える。
参考
現地案内板
「山田方谷マニアックス」
「備中たかはし「備中松山城」」
「埋もれた古城」
「kみむのホームページ」
「家紋World」
「城めぐドットコム」
「ウィキペディア(Wikipedia)」
備中松山城
別名:高梁城
城の種類:山城
築城年:仁治元年(1240)
築城者:秋庭重信
主要城主:秋庭氏、高橋氏、高氏、上野氏、庄氏、三村氏、小堀氏、池田氏、水野氏、浅野氏、安藤氏、石川氏、板倉氏
遺構:現存天守、石垣、土塀、櫓、門、曲輪、根小屋
文化財指定:重要文化財
所在地:岡山県高梁市小松山
交通:JR「備中高梁」駅よりタクシー・バスで約15分、小松山の本丸まで徒歩約20分
歴史・沿革
承久の乱後、鎌倉幕府から戦功の賞として備中国有漢郷の地頭職に補せられ現在の上房郡有漢町貞守台ヵ鼻に台ヵ鼻城を築きここを居城とした秋庭重信が、仁治元年(1240)備中路における軍事拠点として臥牛山の大松山に始めて城を築いたのが備中松山(高梁)城の始まりと言われている。
南北朝の内乱初期の頃になると、元弘元年(1331)三好氏一族で備中守護職となった高橋宗康が城主として入り四代23年間高橋氏の居城となる、この間に城域を現在天守の残る小松山方面まで広げる。
またこの時に当時の高橋城の名を松山城に改めたとも言われている。
室町時代に入り、正平十年(1355)高師秀が備中守護として松山城に入るが、七年後の正平十七年(1362)には高氏の執事などを勤めていた秋庭氏によって師秀は追放され、再び秋庭氏が松山城を回復する。
戦国時代になると、永正六年(1509)には上野頼久が備中守護代として入城、天文二年(1533)には上野氏を滅ぼし庄為資が、元亀二年(1571)には庄氏を滅ぼし三村元親が入城するといったように目まぐるしく城主が変わった。
備前の宇喜多氏との戦いで敗れた後、毛利氏の援助で勢力を回復し松山城に入る事が出来た三村氏であったが、後に宇喜多氏が毛利氏と和睦し接近するようになると、松山城主・三村元親は長い間争い、また父親の三村家親を宇喜多直家の刺客によって暗殺されている事からも深い恨みを抱いている仇敵宇喜多氏の毛利陣営参入を不満に思うようになる。
その元親に毛利氏と対立している織田信長からの誘いが掛かる、長年仕えた毛利氏を裏切る事に反対意見もあったが、天正三年(1575)元親は宇喜多氏打倒のため毛利陣営より離反し織田陣営へ寝返る、この時寝返りを反対していた祖父・三村親成とその子親宣の父子は元親を見限り出奔している。
この三村氏の離反に強い怒りと危機を感じた毛利輝元は、山陽道守将・小早川隆景を総大将とし備中に8万の大軍を派兵する。こうして松山城を中心とした戦い備中兵乱の口火が切られる事となる。
この一連の流れの中で、毛利方で山陰道守将・吉川元春は宇喜多は信用出来る相手ではなく、歴代忠孝を働いてきた三村家を蔑ろにするものであり、義から外れる行いであると宇喜多氏との和睦に反対し、備中派兵の際も直接三村元親に会って翻意させるので討伐は厳に避けるべきであると具申するが容れられず、「義を通さぬ毛利家の将来は暗い」と嘆いたという。
三村勢の本城である松山城はこの頃、「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていて臥牛山全域が巨大な要塞となっていたと記録に残っていると言う事です。
このため毛利軍は松山城を残し、猿掛城・斉田城・国吉城・鶴首城など周囲の城を次々と陥落させ、松山城を包囲する。
裸城同然になったとはいえ、要塞化している松山城を力攻めで落とす事は容易ではなく、持久戦に持ち込み戦意を失わせ離反などの内部からの崩壊をまった。
その結果、1ヶ月ほどして三村勢の士気は衰え、内応者が出て天神の丸が陥落する、そして内応する者が次々と現れ天正三年(1575)最後まで残った家臣の説得で三村元親は妻子や残った家臣と共に落ち延びる事を決める。
こうして要害松山城は陥落し備中兵乱は収束する事となるが、元親は落ち延びる途中で怪我を負い落ち延びる事を断念する、そして小早川隆景に切腹を願い出て松山城の砦の役割を兼ね創建された松連寺で自害して果てる。
この後、慶長四年(1600)関ヶ原の戦いで西軍に与した毛利氏は敗れ防長二国に退く、そして徳川幕府は毛利の押さえとして松山城に城番として小堀正次・政一(のちの遠州)親子を置く。
正次は四年後に他界し、代わって政一が代官としての職につき元和三年(1617)に河内国奉行を兼任となり、大阪天満南木幡町に役宅を与えられ移るまでの17年間を備中松山で過ごす。
その間、慶長十三年(1608)には駿府城普請奉行となり修築の功により従五位下遠江守に叙任され、以降この官位から通称・小堀遠州と呼ばれるようになる。
また、松山では城下町や御根小屋の整備や修築に力を注ぐ、当初は頼久寺で政務を執っていたが改修後は御根小屋に移り住んだという。
元和三年(1617)からは政一に代わり、因幡鳥取藩より池田長幸が入城し、6万5千石の備中松山藩が成立する。
しかし、寛永十八年(1641)池田氏は二代で無嗣除封となり松山藩は一時備後福山藩の預かりとなる。
慶安元年(1642)水野勝隆が成羽より入封する、現存する天守はこの水野氏の二代・勝宗により造営された物であるとも言われている。(一説には小堀遠州が造営した天守を勝宗が改修したとも)
水野氏も三代で無嗣除封となり所領は没収となる、播磨赤穂藩預かりとなり浅野氏の所領となる、この時家老の大石内蔵助良雄が1年ほど城番を勤めている。
その後は安藤氏二代・石川総慶・板倉氏七代と城主を務め廃藩置県を迎える。
参考
現地案内板
「山田方谷マニアックス」
「備中たかはし「備中松山城」」
「埋もれた古城」
「kみむのホームページ」
「家紋World」
「城めぐドットコム」
「ウィキペディア(Wikipedia)」






