大洲城の覚え書き_まとめ
訪問したお城の歴史についてのまとめ、大洲城編
大洲城
別名:地蔵ヶ嶽城、大津城
城の種類:平山城
築城年:元徳三年(1331)
築城者:宇都宮豊房
主要城主:宇都宮氏、大野直之、小早川隆景、河野通直、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂氏、加藤氏
遺構:復元天守、櫓、石垣、堀
文化財指定:重要文化財
所在地:愛媛県大洲市大洲
交通:JR予讃線「伊予大洲」駅より徒歩約20分
歴史・沿革
大洲城は元徳三年(1331)頃、伊予守護職の宇都宮豊房によって肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に地蔵ヶ岳城が築城されたのが始まりとされる。
伊予宇都宮氏の起こりは、鎌倉時代で承久の乱時の功により宇都宮五代朝綱に伊予国の守護職が与えられた事に始まる。
以降、伊予守護職は宇都宮一族によって継承され、元徳二年(1330)豊前宇都宮氏五代頼房の子の豊房が伊予守護職に任じられ、翌年伊予に移り大津(大洲)に居を構える。
伊予宇都宮氏は豊房以降、大津(大洲)を拠点に戦国末期まで続くが豊房には子がなく、筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子・宗泰を養子に迎え守護職を継がせている。
伊予宇都宮氏は八代約230年大洲に居城する事になる。
戦国期の南伊予には喜多郡の宇都宮氏と宇和郡の西園寺氏の二大勢力があり、さらに伊予周辺では宇都宮氏、西園寺氏以外にも河野氏・一条氏・長宗我部氏・大友氏らがしのぎを削っている状態であった。
天文期の宇都宮氏は大友氏・河野氏・一条氏と結び西園寺と対抗し優位に立つ、しかし永禄期になり大内氏が滅亡すると伊予宇都宮氏を取り巻く状況が一変する、毛利氏が台頭してくると河野氏が西園寺氏とのよしみを通じ、毛利氏を後ろ盾にし宇都宮氏・大友氏との対立姿勢を示すようになる。
さらには、大友氏・土佐一条氏との友好関係も壊れてくると、伊予宇都宮氏は孤立し勢力は衰退の一途をたどる。
そして永禄十二年(1568)頃には河野氏が本格的に宇都宮氏討伐を開始する、宇都宮氏は土佐勢の加勢を受けて対抗するが、毛利氏・西園寺氏の援軍を得て侵攻してくる河野氏の前に大敗し、豊綱は毛利方に捕らえられ大津城(大洲城)に拠点をおく伊予宇都宮氏はここに滅亡となる。
宇都宮氏が滅んだ後大洲城は、河野氏より宇都宮家旧臣で宇都宮豊綱の娘婿であった大野直之に与えられる。
天正の頃になり、土佐を平定した長宗我部元親は四国の制覇を狙い、南伊予にも侵攻してくるようになる。
そして元親は大洲城主・大野直之に調略の手を伸ばすと、直之はこの誘いに応じ河野氏から離反し長宗我部氏へ属す。
しかし、天正十三年(1585)豊臣秀吉による四国征伐が行われると、秀吉軍の小早川隆景によって大洲城も攻略される、隆景はこの他河野通直の湯築城を破るなどの功績をあげた事から秀吉より伊予一国を与えられこの地に入国する。
その後、河野通直・戸田勝隆と城主が変わり、文禄四年(1595)藤堂高虎が伊予板島(宇和島)に大名として入ると、その支城の大洲城は近世の城郭として整備されたという、高虎は慶長十三年に伊勢津藩へと転封となるが、大洲は高虎預かりの地のままとなる。
やがて淡路洲本より脇坂安治が5万3千石で入封し大洲藩が立藩する。(この時、地名を大津から大洲へと改名したとの説もあり)
また、天守をはじめとする建造物が造営されたのも、この高虎・安治の時代であったという。
安治は元和元年(1615)に子の安元に家督を譲り隠居する、2代安元は元和三年(1617)信濃飯田に転封となり、代わって加藤貞泰が伯耆米子藩より6万石で入封する。
以降、貞泰から数えて13代加藤氏の居城となり、明治維新を迎えることとなる。
参考
現地案内板
現地取得パンフレット
「能登畠山氏七尾の歴史[人物列伝]」
「kみむのホームページ」
「家紋World」
「ウィキペディア(Wikipedia)」
大洲城
別名:地蔵ヶ嶽城、大津城
城の種類:平山城
築城年:元徳三年(1331)
築城者:宇都宮豊房
主要城主:宇都宮氏、大野直之、小早川隆景、河野通直、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂氏、加藤氏
遺構:復元天守、櫓、石垣、堀
文化財指定:重要文化財
所在地:愛媛県大洲市大洲
交通:JR予讃線「伊予大洲」駅より徒歩約20分
歴史・沿革
大洲城は元徳三年(1331)頃、伊予守護職の宇都宮豊房によって肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に地蔵ヶ岳城が築城されたのが始まりとされる。
伊予宇都宮氏の起こりは、鎌倉時代で承久の乱時の功により宇都宮五代朝綱に伊予国の守護職が与えられた事に始まる。
以降、伊予守護職は宇都宮一族によって継承され、元徳二年(1330)豊前宇都宮氏五代頼房の子の豊房が伊予守護職に任じられ、翌年伊予に移り大津(大洲)に居を構える。
伊予宇都宮氏は豊房以降、大津(大洲)を拠点に戦国末期まで続くが豊房には子がなく、筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子・宗泰を養子に迎え守護職を継がせている。
伊予宇都宮氏は八代約230年大洲に居城する事になる。
戦国期の南伊予には喜多郡の宇都宮氏と宇和郡の西園寺氏の二大勢力があり、さらに伊予周辺では宇都宮氏、西園寺氏以外にも河野氏・一条氏・長宗我部氏・大友氏らがしのぎを削っている状態であった。
天文期の宇都宮氏は大友氏・河野氏・一条氏と結び西園寺と対抗し優位に立つ、しかし永禄期になり大内氏が滅亡すると伊予宇都宮氏を取り巻く状況が一変する、毛利氏が台頭してくると河野氏が西園寺氏とのよしみを通じ、毛利氏を後ろ盾にし宇都宮氏・大友氏との対立姿勢を示すようになる。
さらには、大友氏・土佐一条氏との友好関係も壊れてくると、伊予宇都宮氏は孤立し勢力は衰退の一途をたどる。
そして永禄十二年(1568)頃には河野氏が本格的に宇都宮氏討伐を開始する、宇都宮氏は土佐勢の加勢を受けて対抗するが、毛利氏・西園寺氏の援軍を得て侵攻してくる河野氏の前に大敗し、豊綱は毛利方に捕らえられ大津城(大洲城)に拠点をおく伊予宇都宮氏はここに滅亡となる。
宇都宮氏が滅んだ後大洲城は、河野氏より宇都宮家旧臣で宇都宮豊綱の娘婿であった大野直之に与えられる。
天正の頃になり、土佐を平定した長宗我部元親は四国の制覇を狙い、南伊予にも侵攻してくるようになる。
そして元親は大洲城主・大野直之に調略の手を伸ばすと、直之はこの誘いに応じ河野氏から離反し長宗我部氏へ属す。
しかし、天正十三年(1585)豊臣秀吉による四国征伐が行われると、秀吉軍の小早川隆景によって大洲城も攻略される、隆景はこの他河野通直の湯築城を破るなどの功績をあげた事から秀吉より伊予一国を与えられこの地に入国する。
その後、河野通直・戸田勝隆と城主が変わり、文禄四年(1595)藤堂高虎が伊予板島(宇和島)に大名として入ると、その支城の大洲城は近世の城郭として整備されたという、高虎は慶長十三年に伊勢津藩へと転封となるが、大洲は高虎預かりの地のままとなる。
やがて淡路洲本より脇坂安治が5万3千石で入封し大洲藩が立藩する。(この時、地名を大津から大洲へと改名したとの説もあり)
また、天守をはじめとする建造物が造営されたのも、この高虎・安治の時代であったという。
安治は元和元年(1615)に子の安元に家督を譲り隠居する、2代安元は元和三年(1617)信濃飯田に転封となり、代わって加藤貞泰が伯耆米子藩より6万石で入封する。
以降、貞泰から数えて13代加藤氏の居城となり、明治維新を迎えることとなる。
参考
現地案内板
現地取得パンフレット
「能登畠山氏七尾の歴史[人物列伝]」
「kみむのホームページ」
「家紋World」
「ウィキペディア(Wikipedia)」





